ホモ・サピエンスという「私」
- naoki izawa
- 2020年2月7日
- 読了時間: 8分

令和、新天皇即位…オリンピックなどなど、今年は何か新しい兆し・物語が垣間見える年、、、と、世間では期待しているようです。期待ですから、「良いことが起こりますように」ということになりますね。
誰も「悪いことが起こりますように」などとは期待しませんから。
「期待」とは個人的な主観そのものですから、人(生命)それぞれかなり違ってくるでしょう。
でも、新しい年に対する何か世間的な期待ムーブメントが流れているようです。
しかし、新天皇即位、新元号令和など、世界にとって画期的なイベントではありません。
ですから、世間(世界)ではなく「日本」では、ということなのでしょう。
とにかく私たちはこのような「物語」を創ることが得意です。
それが「人間」という生命の仕組みなのです。
ところで、私たちは私を「人間」という生物として観ているでしょうか。
これはずっと以前から気になっていることの一つでもあります。
生物学的に言えば私たちは「ヒト」学名 : Homo sapiens(ホモ・サピエンス)となります。
学名はラテン語で示されます。
ちなみに「イヌ」は「canis カニス」、「ネコ」は「Felis catus フェリス・カトゥス」、「サル」は「macaca fuscata マカカ・フスカタ」となっています。
ですから、私たちも犬、猫、猿などと同様「生物」に違いはありません。
それは、人間が「ヒト」という生物であると認めているということですね。
生物という分類、そして生物を分類しているのは、他ならぬ人間ですから。
しかし、私たちは「ホモ・サポエンス」という生物から「私」という存在を観ることはしません。
そもそも、ホモ・サピエンスなどとは思っていないのです。
「私」ということはよく言いますし、聞きます。
「私」を知りたい、本当の「私」に出会いたい、「私」をもっと好きになりたい、「私」を向上させたい、、、。
このようなセリフは頻繁に聞かれます。
それは今に始まったことではないでしょう。
おそらくギリシアやインドなど、哲学が高度に発達した(ある域まで達した)時代以前からあった問いでありセリフだったのでしょう。
しかし、哲学が高度に発達した時代にあっても、私を「生物」として観ることはなかったように思います。
あくまで、「私」を概念で捉えて「私」を探求しようとしていたように思います。
ですから、哲学の話はやたらと小難しく、複雑、そして堂々巡りで、議論が未だに絶えず、エンドレスにただただ文字・言葉だけが氾濫し、さまよっているようです。
では、「私」をHomo sapiens(ホモ・サピエンス)という生物で観るとどうなるのでしょう。
ユバル・ノア・ハラリという方がいらっしゃいます。
『サピエンス全史』『ホモ・デウス』という本の著者です。
これらの本は累計2000万部販売されているという超ベストセラーです。
ですから、すでにお読みになっているかも知れませんし、本のタイトルなど聞かれたことがあるかもしれません。
ハラリさんはこれらの本を通して、特に『サピエンス全史』を通して、私たち人間をホモ・サピエンスとして観察しています。
私たちに最も近い人類が「ネアンデルタール人」と言われているようですが、「ホモ・サピエンス」とはまるで(ほとんど)別の人類ということらしいです。遺伝子的にもほとんど違っているようです。
このネアンデルタール人は約4万年前に絶滅してしまいました。
ということで「ヒトhomo」で生き残っているのは、私たち「ホモ・サピエンス」だけということになります。
そして、この「ホモ・サピンエンス」という生物は、なんとこの地球に多大な影響を及ぼす生命にまで成り上がっているのです。この地球を滅ぼすことまで可能な生物になったのです。
では、なぜそのようなことが可能になったのでしょう。
私たち一人ひとりはとてもちっぽけな存在でしょう。
空を飛べるわけでもなく、とてつもなく強い腕力を持つわけでもなく、他の生物を圧倒するスピードで走ることができる脚力を持つわけでもなく、どんな物音も聞き漏らすことのない聴力を持つわけでもなく、ほんの微かな匂い・香りを判断する嗅覚もなく、遥か彼方を見る視覚も持ち合わせていません。
これら全て他の生物より圧倒的に劣っていると言えるでしょう。
このようにみると、私たち「ホモ・サピエンス」という生物は生存ということを考えると、とても弱い、無能な生物と言えるように思います。
ネアンデルタール人の方がこのような能力ははるかに上だったようです。
しかし、ネアンデルタール人は絶滅し、そして、非力な私たちが生き残り、偉そうに生きているのですね。
それは、「ホモ・サピエンス」には他の生物には絶対にない、何か特殊な能力があったからに他なりません。
その特殊な能力とは何か。
「考える能力」…だと思われると思います。
しかし、考える能力は他の生物(チンパンジーなど)にもあります。
ハラリさんはこのように言います。
「虚構を信じる能力」と。
虚構とは事実ではないことですね。
「作りごと」です。
つまり、ありもしないもの、あるかどうかわからないもの、想像上のもの、、、です。
それを信じる能力を私たち(ホモ・サピエンス)は持っていて、その能力があったからこそネアンデルタール人を出し抜いて他の生物を圧倒するまでに成り上がった、とハラリさんは言われるのです。
さて、ここでブッダ(ダンマ)を学んできている方は気づくのではないかと思います。
「虚構」=「妄想・捏造」ということでは、と。
その通りなのです。
私たち人間が他の生物(生命)と圧倒的に違うのは「妄想・捏造」する能力なのですね。
そして、その能力があるからこそ「人間」と呼べるのです。
しかし、それは偉そうに胸を張って誇るべきことではありません。
ブッダを学んできている方には、理解できることだと思います。
なぜなら、妄想が私たちを苦悩させる因となるだからです。
「虚構を信じる能力」こそが、唯一ホモ・サピエンスの能力だと発見したハラリさんの観察眼はかなり鋭いものです。
実は、ハラリさんは瞑想者でもあるのです。
ヴィパッサナーです。
ですから、当然テーラワーダ(初期仏教)とも少なからず縁があると言えるでしょう。
ちなみに、ハラリさんはゴエンカ師系のヴィパッサナーをされているようで、その指導者としての資格もお持ちのようです。
瞑想指導者でもあるわけです。
来日された時、対談やインタビューなどの合間のほとんどの時間は、瞑想をされていたようです。
ハラリさんは最近の著書『21Lessons』の中で次のようなことを書かれています。
「私は2000年に初めて講習(ゴエンカ瞑想合宿?)を受けて以来、毎日2時間瞑想するようになり、毎年1か月か2か月、長い瞑想修行に行く。瞑想は現実からの逃避ではない。現実と接触する行為だ、、、、、瞑想の実践が提供してくれる集中力と明晰さがなければ、『サピエンス全史』も『ホモ・サピエンス』も書けなかっただろう。」と。
私もゴエンカ師(故人)の瞑想合宿に参加したことがあります。
ちなみにゴエンカ師は出家者(比丘)ではありません。
在家者です。
元々は敬虔なヒンドゥー教徒だということです。
そのせいかどうか分かりませんが、毎晩行われるダンマトークの中でも、あまりブッダ(釈尊)個人のことは出てきていないように思いました。
テーラーワーダでももちろん「ダンマ」を中心とした法話になるのですが、ブッダ(釈尊)個人への「信saddhā」がとてつもなく強いと思います。
ブッダ個人が大好き(?)なのです。
大師匠であり、母であり父であり、姉であり兄であり、善友であり、、、。といったそんなとても身近な存在なのですね。
そのようなことはゴエンカ師の合宿では感じられませんでした。
あくまでブッダ(釈尊)ではなく「ダンマ」が主なのです。
もちろん間違ってはいませんが、、、。
ちょっと「ホモ・サピエンス」から話がずれてしまいました。
いずれにしましても、ユヴァル・ノア・ハラリさんという方が「新たなる知の巨人」呼ばれ、著書や講演等を通して世界に影響を与えている事実はとても私にとってとても嬉しいことです。
随喜します。
Sādhu! Sādhu! Sādhu!
サードゥ!サードゥ サードゥ!
ハラリさんは著書『21Lessons』の中でこんなことも言っています。
「人生は物語ではない」と。
これもまさにですね。
ヴィパッサナーをしっかり真摯に実践されているのがよく分かります。
物語は個人個人の主観が創作した「作りごと」です。
つまり「虚構」なのです。
事実・真実に「物語」はありません。
あるのは因果法則・縁起だけなのです。
「私」を知りたいのであれば、その前に「私」は生物であるとしっかりと自覚することです。
そして、その生物は一体全体どのようなものなのか、如実に観察することです。
そのプロセスを通過しないで、どうして「私」なるものが分かるのでしょうか。
「私」とはその生物が存在しているから現れるのですから。
生物が存在しなかったら「私」などというものも現れようがありません。
ホモ・サピエンス(人間)という生物(生命)を自ら如実に観察してみましょう。
その結果、何を発見するのでしょう。
ちなみにその答えはすでに出ています。
ブッダ(釈尊)が説かれています。
「人間を超えること」とブッダはそう説かれます。
なぜそのようなことを説かれるのか、人間という生命(私)を如実に観察されることで理解できるのではないでしょうか。
「人間を超えること」「人間ではなくなること」「人間を脱出すること」それが究極のゴールであり、目先の少々の幸福に妥協せず、真の揺るぎない安寧・幸福、そこをしっかり目指しなさいと説かれるのです。
そのためにはブッダの説かれたダンマに添い実践するしかありません。
是非、これからもダンマの実践続けていっていただきたいと思っています。
また、今後もブッダのダンマに触れられる機会を設けていきたいと思っています。
その際には、是非ご参加ください。
ブッダの教えは生命にとって”必要不可欠”なものです。
多くの方々(生命)がブッダのダンマに触れられることを願っています。
そのための機会を設けることができたらと思っています。
また、お会いできる時を楽しみにしております。
すべての祝福が皆様にありますように。
井澤(アリヤワンサ)
追伸
ユヴァル・ノア・ハラリさんのTED動画です。
日本語字幕設定できますので、是非ご覧ください。
「虚構」についてきっぱりと話されています。
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