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罪を軽くみない、善を軽くみない


聖者には定義があります。 勝手に私は聖者などと名乗ることはできません。 その辺りもブッダはあいまいにしてはいません。 聖者は八つに分けられます。 つまり八段階あることになるわけです。 最初の段階が「預流道(よるどう)sotāpatti-magga(ソータパッティマッガ)」、そして究極の聖者が「阿羅漢果(あらかんか)arahatta-phala(アラハッタパラ)」となります。 最初の聖者「預流道」についてスマナサーラ長老が解説されています。 また、預流果の信saddhā(サッダー)というものについても、「うさぎを逃がした青年」という物語で語られています。

(動画はこちらです) https://youtu.be/8XKbYhLkViI

ダンマを学ぶ者は、五戒というものを受持します。 その中に「生き物を殺すことから離れる(不殺生戒)」があります。

生き物ですから、すべての生き物が対象になります。 人間だけをさすものではありません。

つまり、蚊もゴキブリも犬も猫も鳥も毛虫もムカデも、ライオンもキリンもワニも、、、、です。 さらに、地獄界、餓鬼界、阿修羅界、天界といったところの生命も、、、です。

人間もこれら無量の生命の中のひとつです。 特別な存在(偉大の生命)ではありません。 万物の霊長などといったものではありません。 命はすべて同じなのです。 ですから、生きるということはどんな生命であれ公平なものなのです。 つまり命に優劣、順位などないのです。

蚊一匹の命と人間一人の命は同等なのです。 ゴキブリ一匹と人間一人の命は同等なのです。 ゴキブリが嫌いだからと、無造作に殺してしまう業と、気に食わないやつだからと殺人をする業とは同じです。 人間を殺す方が罪が重いわけでありません。 ゴキブリを殺しても、人間を殺しても不殺生戒を破ったことは同じです。 罪は同じなのです。 ですから、不殺生戒ひとつを守るだけでも、そうとう人格が育つのが実感できるはずです。 慈悲の心がしっかり育っているはずです。 犯した罪は消えることはありません。 いずれそれは何らかの結果(悪果)となって現れてきます。 もちろんその結果は自分に現われるのです。 他者に現われることはありません。

自業自得です。 悪因悪果です。 善因善果です。

もうすでにご存知のことですね。

Dhammapada(真理の言葉)に次のような偈があります。

「『その報いはわたしには来ないだろう』と思って、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴(したた)りおちるならば、水瓶でもみたされるであろう。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがてわざわいにみたされる」 ですから、罪は積まないようにしっかりと自分の行為(身口)に気をつけることです。 そのためには心(意)にしっかり気づきsatiを入れていかなければなりません。 三つのkusala(クサラ・善行為)というものがあります。 罪は消えることはありません。 ですから、そのかわり徳を積むのです。

その善行為の方法が3つあります。 ひとつはDāna(ダーナ・布施)です。 与えることです。 英語でgiving、giftとなります。 ですから、そんなに難しいことではありません。

布施には二つあります。

ひとつは、財施 āmisa-dānaです。 物質を与えることです。

もうひとつは、法施 dhamma-dānaです。 法を与えること。知識を与え、指導し教えることです。

このふたつのうちで法施の方が勝れています。 財施は生きる(生活する)ことを支援して、相手の頼りとなるものとなりますが、法施は自らに頼る(自らの力で生きる)ことを教えるものです。

また、布施をする人、布施をされる人、布施するもの、によって積まれる徳の高さは違ってきます。

汚れた心(怒り、高慢、見栄など)で、悪人に、不正に得たものを布施をしても、布施は布施です。 しかし、その徳は最も低いものになります。

もちろん、財施などの場合、お金であれば金額が多ければ多いほど徳が高いということではありません。 あくまでも、布施をする人、布施をされる人、布施するもの、によって徳の高さが変わるということです。 これは実に単純な業(kamma)の話しになりますが、お金持ちになるのも、貧乏になるのもDāna(ダーナ・布施)が大きく影響しています。 どんなに精一杯努力しても、お金持ちになれない人もいます。

また、それほど努力しなくても、お金持ちになってしまう人もいます。

その大きな原因となるのが、過去・過去世の業(kamma)になるのです。

過去・過去世において懸命にDāna(ダーナ・布施)した人が、今世においてお金持ちになるのです。 そうではなく、過去・過去世においてDāna(ダーナ・布施)から離れた人、つまりケチだった人は今世において貧乏になるのです。 あまりにも貧乏になってしまったら、ダンマの修行どころではありません。

当然、覚り、解脱などいったものから遠く離れてしまいます。 それはブッダの望むところではありません。 ですから、Dāna(ダーナ・布施)を真面目に行なって、今世において少しでもダンマに専念できる環境にしたほうが善いわけです。 もし、また、人間という生命界に輪廻転生するチャンスに恵まれたら、その生においても貧乏より、財に恵まれていた方が善いはずです。 布施について詳しくはこちらをお読みになってみて下さい。 スマナサーラ長老の解説です。 https://j-theravada.net/world/keyword/keyword-06/

ふたつめのクサラです。 それは、戒 sīla を守る(受持する)ことです。 戒というのは身体と言葉で過ちを犯さないように、罪を積まないようにすることです。 基本中の基本の戒が五戒 pañca sīla ですね。 ダンマを学ぶ者からは、外すことができないものです。 ・生きものを殺すことから、離れること(不殺生戒) ・与えられていないものを取ることから、離れること(不偸盗戒) ・諸々の欲望に対して、邪に行なうこと(淫らな行為)から離れること(不邪淫戒) ・偽りの言葉から離れること(不妄語戒) ・放逸の原因となり、人を酔わせる酒・麻薬類から離れること(不飲酒戒) これら五つが五戒となります。 三つ目のクサラは修行・修習 bhāvanā です。 清らかな心が生じ、汚れている煩悩を消すために行なう心の実践が bhāvanā(バーワナー)です。 修習法は二つあります。

・samatha(サマタ・止) ・vipassanā(ヴィパッサナー・観) サマタはひとつの対象に集中し続けること。 飛び散っている心を一つの対象に統一させることです。 いわゆる、普通に言われるところの瞑想と言えます。 しかし、ここでのサマタは正しいサマタのことです。 邪(よこしま)なサマタもあります。 俗世間に出回っているサマタ(集中瞑想)は邪と言っていいでしょう。 ヴィパッサナーは明確に観察することです。 何を観察するのかというと「自己」になります。 明確にとは「ありのまま・そのまま」ということになります。 「ありのまま・そのまま」とは事実・真実ということになります。

つまり、事実・真実をありのままに観るというです。

誤解のないように補足します。

「ありのまま・そのまま」に観ることは一般人にはできません。

俗世間では「ありのまま・そのまま」に見るとか、見たとか、いとも簡単に平気で口にしますが、それは真実・事実を見ているわけではなく、妄想・捏造したものを見ているのです。 ですから、それはヴィパッサナーでもなんでもありません。 ただの、思い込みです。 あくまで、ブッダの説かれたヴィパッサナーは物事・現象の本質、つまり事実・真実をそのまま観ることをするものです。 一般人レベルでできるものではありません。 ダンマを精進して修行して、初めて可能になるレベルのものです。 このように、三つ目のクサラである bhāvanā(バーワナー) は二つになります。

bhāvanā(バーワナー)は、瞑想と訳されるのですが、本来の意味するところは、心を成長させる、人格向上させる、心をダイレクトに改革させる、修習という意味です。 ブッダは瞑想(yoga)という言葉ではなく、このbhāvanā(バーワナー)という言葉を使われています。 迷信的、神秘的、つまり宗教的な意味と思われやすい瞑想ではなく、あくまで科学的、論理的な心の改革プログラムであるということなのです。 ブッダの教えに神秘はありません。 俗では神秘的な体験として興奮・歓喜するものでも、ブッダの教えの中では、全然神秘的なものなどではなく、とてもクールにその経験を観ます。ただ、それだけです。 神秘的なものに価値はないのです。

それで、聖者になること、つまり覚ること、そして究極の聖者である「阿羅漢果(あらかんか)arahatta-phala(アラハッタパラ)に到達することはありません。 つまり、一切の苦悩から解放されること・自由になることはないのです。 ですから、そのようなものは汚れているもの、邪魔なものと観るのです。  神秘的なものは、智慧ではないからです。 ただのイメージ(幻影)、幻聴、感覚、感情に過ぎません。 それらはすべて妄想・思考の副産物なのです。 ですから、興奮することでも、歓喜することでも、吹聴することでも、自慢することでもないわけです。 ただの一つの現象にすぎないのですから。 いずれにしても、その現象はやがて消えてしまいます。 ですから、そこに、確かなものは何一つありません。 智慧は、一度現れたら絶対に消えることはありません。 なぜなら、真実・事実の発見だからです。 妄想・思考の副産物ではありません。

究極の聖者に到達するまでは、私たちは罪をどうしても犯してしまいます。 罪を積んでしまいます。 その罪は消えるものではありません。 しかし、sati によってそれを最小に制御していかなければなりません。 そして、やはりこの三つのkusala(クサラ・善行為)の実践が不可欠となります。 善(徳)を積んでいくことです。 ・Dāna(ダーナ・お布施)すること ・sīla(シーラ・戒)を守る(受持する)こと ・bhāvanā(バーワナー・修習・修行)を実践すること この三つを実践していくことで、徳を積んでいくことが必要となってきます。 ブッダはこのようにおっしゃっています。 Dhammapada(真理の言葉)に次のような偈があります。 「『その報いは私には来ないだろう』とおもって、善を軽んずるな。水が一滴ずつ滴(したた)りおちるならば、水瓶でもみたされる。気をつけている人は、水を少しずつでも集まるように善を積むならば、やがて福徳にみたられる」 善を軽くみてはいけません。 悪も軽くみてはいけません。

一切の悪を行なわないこと、善を成就すること。 自分の心を遍く清らかにすること。 「こころを清らかにする人が幸せである」のです。

生きとし生けるものが幸せでありますように。 ムサ・コジ

〜三宝のご加護がありますように〜


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