なぜ人は走るのか
おはようございます。 ムサ・コジです。
最近、よく走る人を見かけます。 ほとんどの人がヘッドホンをつけたり、 何か腕にはめたり、ポケットに差し込んだりして走っています。 身体ひとつで走っている人はあまりみかけません。 また、バイク(自転車)に乗る人もよく見かけます。 ロードレーサーというカッコいいものがほとんどです。 流行なのでしょう。 でも、走っている人たちはとても苦しそうです。
苦しくなるのを知っているのに、走る。 そもそも生命は苦しいのはイヤなはずです。
でも、人間は走ろうとする。 ちなみに侍は走らなかったようです。 ということで、今回は、、、
「走ること怒ること」 というテーマでbiブログ書いてみます。
◆健康志向という思考 私たちは健康にすごく興味があります。 そして、健康といえばほとんど身体のことになります。 とにかく健康体志向なのです。 飲めば健康になるコーヒー、食べると身体に良いスナック菓子、歯を健康にするガム。 着ているだけで健康になる下着、マイナスイオン発生機能付きエアコン、尿糖値検査ができる便器、、、 などといったものがあったように思います。 また、昨今ではアップルウォッチなどを使って、 心拍数、歩数、走行距離、睡眠時間などを計測し、それを健康管理に使っているようです。 「データ・ヘルスケア」ということです。 常に自分の身体に身につけ、色んな数値をウォッチするのですね。 また、走る人もとても増えているようです。 実際に、東京マラソンなどでは募集枠二万数千人のところ約三十二万人もの応募があるようです。 市民ランナーの数は増え続けているようです。 皇居は今や市民ランナーの聖地となっていますね。 都会だけではなく普通の街でも、確かに走っている人を頻繁にみかけます。 あわせてロードレーサー(自転車)に乗っている人もよくみかけます。 いずれも走ってます。 このように健康体志向というのは、とても大きなトレンドで、それが当然の風潮のようになっています。 ニューヨークなどでも、競うようにオーガニック食品を食べ、自転車で仕事に向かい、仕事の後ジムに通っているようです。 ところで人はなぜ走るのでしょう。
◆侍は走らない
ちなみに“侍”は走らなかったようです。 司馬遼太郎さんの『日本人論」に次のような言葉があります。
「小さな躾でいえば、侍は雨が降っても走らない。そして、道の真ん中を歩く。 雨に濡れないように軒先を歩くのは、見ていて浅ましいものでしょう。 曲がり角など、直角に曲がるそうですな。直角に曲がるのが侍というものなんです。」 実際に侍は走るのが得意ではなかったようです。 明治政府になってはじめて西洋式で走るトレーニングが導入されました。 そのトレーニングは大変だったようです。 何しろ、腕を交互に前後に振りながら走ることを知らなかったのですから、当然でしょう。 侍のみならず日本人はこのような走り方ではなかったようです。 “ナンバ”走りなどと呼ばれています。 なぜそのようなトレーニングをしたのでしょう。 西洋式に走らせるためです。 なぜそのようなことをしたのでしょう。 それは他国と戦うためです。 西洋式の戦をするためです。 世界大戦の幕を上げるためです。 では、侍はなぜ走らなかったのでしょう。 走らないように躾けられたのでしょう。 侍が走らないのは、、、 いかにも悠々と歩くため。 侍が走る時は一大事が起きたときだけ、 なぜなら侍が走れば、民衆が何か大事が起こったと不安になり動揺するから。 侍が走っていいのは、火事、地震、戦、斬り合いくらい。 侍が夕立や雷程度で走ったりしたら笑われる。 このような事情があったようです。
武道場などでは、今でも走ることは戒められているはずです。 精神的な落ち着きが求めらたのです。 品格を求められたのです。 尊敬に値する人間であるためです。 心を乱さないためなのです。 些細なことで、じっとしていられなくて、 走り出してしまうような人であったら、 やはり頼りないですし、まわりも落ち着きません。
こころが静かに落ち着いていたら、 走りたい衝動など生まれません。
走る必要などありません。 ここでもう少し突っ込んでみましょう。 ◆なぜ人間だけわざわざ走るのか 「なぜ、“人間”は走るのでしょう?」 チータやライオンなどの生命は走らないと、獲物を捕れませんから、走らなければなりません。 狩猟のために走ります。 そうでなかったら死に絶えていきます。 インパラやガゼル、シマウマといった動物は、ライオンなどから逃げるために走らなければなりません。 そうでなかったら死に絶えていきます。 本当は彼らは走ったりしたくはないのですが、 生きるため、子孫のために仕方なく走るのです。 “人間”は走らなくても生きていけます。 走って獲物を捕まえる必要はまずありません。 また、命を狙われて逃げることも基本的にありません。 私たち人間に走る必然性はありません。 ライオンやチータ、インパラたちがそのような境涯にいたら、おそらく走らないでしょうね。 でも、人間は走るのです。 生きることに必要ないのに走るのです。 とてもつらい、苦しい思いをしてまで走るのです。 その根っ子は“苦行”と同じです。
◆苦行と脳内麻薬
なぜ、人間は苦行などをわざわざするのでしょう。 苦行とは、自分の身体を自ら苦しめることをします。 苦行するのも人間だけです。 なぜ、自らの身体を苦しめるのでしょうか。 それは、自分という生命がとてつもない大昔から溜め込んでしまった、 汚れたもの、煩悩・執着を落とすためです。 自分の身体を徹底的に痛めつけることで、それができると思い込んでいるからです。 確かに肉体を死ぬほど痛めると、強い恍惚感にあふれます。 それは脳(神経系)的にみるとβエンドルフィンというホルモンが分泌されるから、とも言えます。 このホルモンはモルヒネの6.5倍もの鎮痛、鎮静効果があると言われます。 脳内麻薬、快楽物質と呼ばれるものです。 死ぬくらいだった激痛が瞬間に引いたら、それはとても楽になります。 それを“恍惚感”と思うのです。
しかし、それは激痛が減った、消えた、そのギャップ、落差のことです。 その落差を“恍惚”だとしているのです。 恍惚感が新たに生まれたのではなく、 激痛が一時的に減った、消えただけです。
ですから、痛みそのものは消えたわけではありません。 痛みを感知するシステムが、モルヒネのような鎮痛成分によって一時機能停止しただけです。 モルヒネは何度も投与しなければならなくなるのが常です。 それは、そのような理由からでもあるのです。 また、生命(人間)が死んで行く直前にもβエンドルフィンが分泌されるともいわれています。 それも死の苦痛の鎮静のためなのでしょう。 苦行は脳的にみれば、そのような強い“恍惚感”を生み出すプログラムと言えます。
◆恍惚感と悟りは別物 その恍惚感を、解脱とか悟りとかと思ったようです。 でもそれは解脱でも悟りでもありません。 弱って死に絶えそうなその肉体に、限界を察知したこころがその活動を止めようとする。 つまり、様々な認識活動が停止するので、とても強い安堵に包まれるのです。 俗な言葉で言ってしまえば、すべてのストレッサー(情報)から解放されるのです。 そのストレッサー(情報)を認識していたのはこころですから、そのこころが停止すれば、 当然こころは安堵するのです。 苦行というものは、インドにある宗教だけではなく、そもそも宗教にはそのような傾向があるようです。 自分の心はとてつもなく汚れてしまっている。 それは、生まれる以前からずっと溜め込んだもの。 簡単に滅ぼし落とすことはできない。 それは身体を痛めつけることでしか、滅びることはない。
だから、苦行をする。
つまり、自分の心、身体に対する嫌悪・否定が根っ子に徹底してあるということです。 嫌悪・否定は怒りです。 とてつもなく強い「怒り」があるのです。 このように、苦行をする根っ子には“怒り”があります。 それもとてつもなく強い怒りです。 そのような怒りのことを別に“害意vihimsâ”とブッダは言います。 破壊したくなるほどの怒りです。 これはもう最悪です。 「こんな自分ではダメだ!!」 「こんな自分にむち打て!!」 「こんなデブった身体はダメだ!!」 「このコレステロール値は何だ!!」 「こんな添加物だらけの食事ではダメだ!!」 などといった破壊的な強い怒りが根っ子にあるのです。 ◆苦行は破壊的な自己否定、自己不満から生まれる それは、強烈な自己否定そして自己破壊です。 怒りはただでさえ猛毒です。 “害意vihimsâ”はさらにそれの上をいくものです。 私たちの身体をダイレクトにむしばんでいくのです。 ですから、ブッダはご自身苦行を止めるのです。 苦行では悟れないと知るのです。 当然ですが、ブッダの教えに苦行はありません。 自分の身体を食事や運動などで、徹底的に管理をしている人がガンになったり、 早死にしたりすることがよくあります。 逆にずっとファストフードを食べている人でも、 健康を害することなく普通に生きている人もいます。 その違いは“こころ”なのです。 “害意vihimsâ”というとても暗いこころで食べたら、 どんなにいい食材でも意味がありません。 逆に清らかなこころ、執着のない澄んだ明るいこころで食べたら、 少々食材が悪くても身体に大きな害を与えることはないのです。
◆走らなければならなくなるのは、とてもつよい自己否定、自己不満から 走るということは、“動きたい”というとても強い衝動のあらわれです。 なぜ、動きたいのでしょう。 なぜ、じっとしていられないのでしょう。 さきほど書きましたように、、、 とても強い自己否定があるのです。 苦行者と同じです。 その根ッ子にあるのは“怒り”“害意vihimsâです。 怒りというのはよく火にたとえられますが、 生命は怒ると熱くなります。 顔が赤くなります。 熱がでるのです。 物質エネルギーを構成している、おおもとの元素が四つあります。 そのひとつが火(Tejo)です。 熱い、寒いといったエネルギーです。 物質を変化させる働きをします。 怒りのこころがこのように物質に影響を与え、 身体が熱くなったり、顔が真っ赤になったりします。 水が沸騰すると蒸気になるように、 そして、零度でかたまり氷となるように、 鉄が高熱でドロドロに溶けるように、 物質を変化させる働きがあります。 怒りのこころでその火(Tejo)が活性します。 細胞が変化したがるのです。 変化は痛みを伴います。 火の熱によってその皮膚が変化すれば、 強い痛みを感じるはずです。
変化は痛みを生むものです。 じっとしていられなくなります。
細胞がじっとしていられなくなります。 心もさらに落ち着きがなくなります。
とても今ここに坐ってなどいられません。 その落ち着きのなさ、心地悪さから逃げないといけないのです。 じっとしていられないのです。 そして“動きたい”という強い衝動が生まれます。 それが、“走ること”につながっていくのです。
◆苦行は称賛され、高慢が生まれる また、苦行をすると俗世間は称賛します。 「凄いですね」 「とてもそんなこと私にはできません」 「奇跡ですね」 「励まされます」 などと、苦行者はほめられます。 ほめられて、苦行者は嬉しくなります。 そこに“高慢”という不善なこころが生まれます。
「自分は他の人よりもすごいんだ」 「他の人にできないことを私はやっているんだ」 などとまわりの人びとと比較し、自分を高い位置にもっていくようになります。 それは、知ってか知らずかおのずとなっていくものです。
それが人間という生命の癖ですから、仕方ありません。 しかし、高慢というのは煩悩の中でとてつもなく根深いものですから、 高慢が増長されるのは、不幸のもとを増やすことになるのことに変わりはありません。 私たちのこころというのは、このようにとてもやっかいなものです。 表面だけでは分かりません。 ◆世間からみたら活動的、でも根暗 ちなみにとても活動的に動き回っている人を、 世間では行動的ですね、とか、ポジティブですね、とか誉めたりします。 そして、一見明るそうにも見えます。 しかし、ここにじっとしていられません。 「次に用事があるので、次に用事があるので、、、」 と落ち着くことができません。 いつもそわそわ、ガサガサしています。 とにかく忙しいのです。 でも表面的には世間ではかなり“やっている人”です。 しかし、そのような人のこころの根っ子にあるのは、 走りたい人と同じ“怒り”“害意vihimsâ”なのです。 強い自己否定がこころの根っ子になるのです。 今が許せないのです。
「今ここにいる自分がイヤなのです」
いてもたってもいられないのです。 ですから、動きたくなるのです。 活動的になるのです。 つまり、根っ子は根暗ということになります。 怒りはとても暗いエネルギーですから。 ブッダはこのように、人のこころの根っ子にあるもの、 こころのカラクリを、こころの巧妙さ、狡猾さを分析し尽くしました。
私たちには何か“したい”という衝動が常に生まれます。 それが実は曲者です。
その衝動のままに流されること、 それが私たちを苦しめる最大の原因となるのです。
その衝動に早く気づき、その根っ子を観察すること。 それが私たちを不幸から離れさせてくれるのです。 「〜したい」 曲者です。 その根っ子にあるのはいつも不満、不安といった“苦”があることを理解することです。 がむしゃらに走ろうとすること、 がむしゃらに何かをなそうと活動的になること、 その根っ子にあるこころのカラクリを観察すること。 ブッダはその大切を常に説いています。 私たちの行為の根っ子にあるもの、 こころの根っ子にある曲者に自ら発見すること、 それが、本当の意味で怒りから解放されること、 “苦”から解放されることです。 走ることで、怒りそのものが消えることはありません。 ちょっとした“ハイ”な気分でデコレーションされただけなのです。 怒りが生まれる根っ子を断ち切るのです。 その具体的な方法をブッダは教えてくれています。 すべての生命は幸福でありますように。
<「“こころ”の学校」関連行事開催予定>
・「“こころ”の学校…専科」〜ブッダの悟りのプロセスを具体的に理解し実践するプログラム ・ブッダの冥想とマインドフルネスについて(所感)
・ダンマ・セッション(こころの対話)〜一切のこころの苦しみから解放されたブッダのダンマ(法・真理)による対話