悟りについて
こんにちは。
ムサ・コジです。
とても冷たくて強い風がふいています。 気温もかなり低くなっているようです。
しかし、私たち生命はそのような環境に合わせていきます。 そのように私たちの身体はできています。
寒いと堅くなります。 震えます。 鼻水が落ちてきます。 手や足の先が痛くなります。 このように変化し続けて行きます。
このようにシステム化されているのですね。 そして、そのシステムを動かす主人が“こころ”なのです。 「ものごとはこころにもとづき、こころを主人とし、こころによってつくり出される」 のです。
ブッダの真理の言葉です。 寒いのも堅いのも、震えるのも、鼻水が落ちるのも、手や足の先が痛くなるのも、 それらはすべてこころによって現れているのです。 こころを学ぶことの大切さ、、というレベルではなく、 一大事なのです。 こころを学ぶことは、私たち生命の一大事なのですね。
最も大切なことです。 ですから、仏教では一大事は“悟り”を得ることを意味します。 ブッダの教えは悟りを得ることが本旨なのです。 葬式や法事、知識・学問は論外となります。 ですから、“悟り”というテーマは絶対ごまかしてはならないことなのですね。 それが、消えたら、ごまかしたらブッダの教えではなくなります。 つまり、仏教ではないのです。 他の宗教となんら変わることなくなるのです。 そんな宗教は必要なくなります。 ということで、今回のブログではこの“悟り”について書いてみます。 もちろん私の拙い能力の範囲のものですが、、、参考にはなると思います。
では、書いてみます。
“悟り”とは一体なんでしょう。
悟りとは仏教語と言っていいでしょう。 お釈迦様が自ら悟ったと公に宣言したからですし、 実際悟られた方でもあったからです。 仏教はお釈迦様の説法から生まれたものです。 お釈迦様は、国王や祭司といったとても高い身分の方々だけではなく、 奴隷の身分の方たちにも説法されました。 しかし、お釈迦様自ら積極的に話されたわけではなく、 質問者が矢継ぎ早に現れることになったので、 その質問者の質問に答えるために説法をしたのです。
悟ったと宣言したのですから、 それは当然のことだったでしょう。
というか、お釈迦様はそこを狙っていたところもあるようです。
それまで誰一人として「私は悟りました」などと宣言した方はいなかったのですから、その注目度は凄まじいものだったでしょう。 “悟り”を目指して、それこそ命がけで何十年も修行を続けている尊者・遊行者、
教祖を差し置いて、まだ若い釈尊がそのようなことを大胆に宣言したわけですから、それはとてもセンセーショナルなことだったのです。 このようなことから、色んな質問者が現れ、それに答える説法をする。 そしてその質問に完全に答えるのです。 お釈迦様は議論しても負けることはありません。 かといって、相手を見下したり卑下したりすることはありません。 また、相手に反論することもありません。
しかし、相手はお釈迦様のお話しに納得してしまうのです。 喧嘩にならないのです。
それが「中道」なのです。 そういった質問者との対話の記録が仏教経典です。 そしてそれが「仏教」となるのです。 また、質問者は自分のことで頭が一杯ですから、 質問の内容もとても身近なものなのです。 ですから、そもそも(原初)の経典は私たちの身近な問題に対する答えでもありますから、実に具体的で分かりやすいです。 学者からするとそこが物足りないと思うようです。 小利口な学問のためのブッダの教えではありません。 一切の衆生の幸福のためなのですから、仕方ないことです。 ですから、私たちがよく見かけるお経とはまるで違います。 私たちがよく見る経典は大乗仏教のもので、原初の経典ではありません。 そして、どちらかというとても抽象的、幻想的な言い回しになっているようです。 あまり身近なものには感じられません。 あの『般若心経』もお釈迦様自身の直接の言葉ではありません。
後生の知識人の言葉なのですね。 さて、お釈迦様はわざわざ自ら悟ったと宣言しました。 本来、悟った方は自らそのようなことはしないものです。 というか、そのような心にはならないのです。 でも、お釈迦様は宣言しました。 そこがとても重要なことです。 これまで“悟り”に至った方は誰一人いませんでした。
つまり、“悟り”について誰も知らないわけです。 もし、誰も悟りについて伝えることをしなかったら、誰一人として“悟り”というものを知らずに今世を終えることになります。 それでは、“悟り”という、生命にとってとても貴重なもの、知るべきものが、また消えていくことになります。
誰かが伝えなければならないのです。 もちろん自ら悟った方がです。 その当時、お釈迦様しかいなかったわけですから、 お釈迦様が伝えることになるわけです。 しかし、当初お釈迦様は伝えることを止めようとしていました。 なぜなら、俗世間の流れに逆らわなければならなくなるからです。 悟りを説くというのは、つまり俗世間の見解、常識、概念、感情、主観、そういったものと逆のことを説かなければならなくなるからです。 それはとても大変なことですし、また、理解できる方がどれだけいるのでしょう。 しかし、梵天に懇願され、、、
「甘露の門は開かれた、耳ある者は聞きなさい」 と宣言されて伝道する決意をしました。 甘露の門とは悟りの世界に入る門といった意味です。 でも、条件がついているのです。 “耳ある者”という条件です。 「悟りの教えを理解する人」ということです。 もし、そういう人であれば“悟る”ことができるということです。 さて、では改めて悟りとは何でしょう。 というか悟った境地とはどういうことでしょう。 それは、私たちに常につきまとう、不安、不満といった空しさ、苦しみから解放されることと言えるでしょう。 つきまとう苦しみが滅び尽くされるということです。 “苦”がなくなるわけですから、あるのは“平安”“落ち着き”“穏やかさ”となります。 私たちの身の回りには、予期せぬ色んなことが起こります。 不幸だと思うことが本当に突然起こるのです。 人災、天災など突然起こるのです。 そんな時私たちは右往左往し、ショックに陥り、悩み、憂い、悲しみにくれたりします。 そのショックから立ち直ることができず、一生を過ごす人も沢山います。
とてもそれは悲しいことです。 しかし、そういった予期せぬ様々な現象に、右往左往することはなくなるのです。 振り回されることがなくなるのです。 落ち着いた状態でいられるのです。 すっきりしない漠然とした不安、空しさからも解放されます。
心から一切の煩悩(汚れ)が落ちた状態。
言葉という制限された表現で喩えれば、このようなことになるでしょう。
何かとても陳腐な、ありきたりの表現になってしまいます。
私たちの心の根っ子にずっと居座っていた“不安”“空しさ”いった“靄(もや)”“闇”が消えた心状態というのは、誰も経験したことがない境地なのです。
ですから、それは本来誰にも表現することができないのです。
なぜなら、ブッダ以前そのような境地を経験した方がいなかったのですから、
当然、それに該当する言語すらないのです。
また、その境地というのは言葉という“相対”を表現するものでは、表現出来ないものなのです。
ラベルを貼ることができないのです。
ですから、ブッダは色んな角度から、様々な視点から、俗世間の言語を使ってその境地を語っています。
もちろんそのような芸当ができたのはブッダだけです。
このように“悟り”というのは誰も経験したことのない未知のものなのです。 言葉で表現することは不可能だということ、ですから聞かれても答えられないのです。 ブッダは悟り・涅槃について聞かれると無記(解答・言及を避けた)で答えたとのことです。
それだけ、言葉では説明困難なものなのです。
しかし、確かに“悟り”は存在するのは事実です。 では、どのようにしたらそのような悟りに至ることが可能になるのでしょう。 その方法をお釈迦様は自ら体験し発見されたのです。 その方法のことを「四聖諦(ししょうたい)」と言います。 つまり、お釈迦様の悟りとはこの「四聖諦(ししょうたい)」とも言えるのです。 恍惚感を得たとか、至福を得たとか、光が見えたとか、 神が現れたとか、女神に出会ったとか、、、俗によく言われる神秘体験があります。 こういったものは悟りではありません。 冥想中のサマーディ(集中)が高まった状態の時に現れたりするものです。 確かに悟りのプロセスにおいて、そのような体験をすることがあります。 そのような体験はあくまで幻想ですので、相手にすることはありません。 ただ、放っておきます。 それはその人の心の中にある“概念・想念”から生まれてくるものです。 その人の思い込みからのものです。 ですから、こういったものは正しい「禅定jhāna」でもありません。 あくまで幻想・ファンタジーです。 それを“悟り”と言ったりする方もあるようです。 しかし、それは違います。 「四聖諦(ししょうたい)」とは智慧につながる具体的な方法のことです。 智慧を得ることが悟りなのです。 智慧を得たらもう消えることはありません。
智慧を得るとは、真理を体験するということです。 あらゆるものごとの真実をありのままに観ることです。
「生きることは何か」その答えを体験することです。
私とはなにか。 人間とは何か。 生命とは何か。 生命はなぜ生まれるのか。 真理とは何か。 その答えを体験するのです。 体験することで智慧を得ることができます。
私とは何か、ありのままに体験するのです。 ありのままといっても、もちろん私たちが通常認識しているレベルのものではありません。 もっと緻密で繊細なレベルです。 ですから、決して神秘的なものではありません。 ファンタジーではありません。 「四聖諦(ししょうたい)」は悟りへの具体的なプロセスであり、方法であり、道標です。 そのプロセスは至って簡単です。
しかし、完成されています。 完璧です。
プロセスは次のようになります。 まず、私たちには常に不安、不満、空しさといった苦しみがついて回っていると知るのです。 これまでの人生を振り返ってみたらよく分かることです。 その苦しみが消え去らないから、いつまでたっても平安になれないのです。 では、なぜその苦しみは起こるのでしょう。 その苦しみの原因をしっかり知るのです。 苦しみの原因はもうすでにお釈迦様によって解明されていますので、 それをきちんと理解すればいいのです。 さらに、いつもつきまとってきた苦しみが消えてしまったらどうでしょう。 その世界はどのようなものか知るのです。 それもお釈迦様が教えてくれています。 そして、苦しみの原因を消す具体的な実践方法を知るのです。 苦しみが生まれる原因が明確になっているのですから、 その原因を根こそぎ断ち切るのです。 苦しみが出るたびに、その苦しみから逃げようと、楽にしてくれそうなものを追っかけたり、苦しみをちょっとした癒しで覆い隠そうとしても、苦しみが消えるわけではありません。 そうではなく苦しみが生まれる原因、つまり苦しみの根っ子を断ち切るのです。 そうすれば苦しみは二度と生まれてこないでしょう。 その方法も具体的にお釈迦様は教えてくれています。
まず、苦しみを理解し、その原因を知り、苦しみが消えた世界が実際あることを知り、 苦しみの原因を断ち切る方法を知り実践する。 これが、お釈迦様が悟ったプロセスであり、生涯説き続けたことであり、説き続けたかったことです。 「四聖諦(ししょうたい)」はお釈迦様が直接説いた形で約2600年間守られ、 現代でも変わることなく受け継がれてきています。 ただし、ここで言ってる「四聖諦」は初期仏教(原始仏教)によるものです。 大乗仏教のものではありません。 日本にある仏教は大乗仏教と呼ばれるものです。 大乗仏教になると初期仏教のものとは違うものになってきています。 本来「四聖諦」は悟りへの道の具体的な実践法になるのですが、 大乗仏教になると、哲学的に偏っていくようです。 誰でも実践できる生の実践法ではなく、 頭の世界、知識の世界になっていくのです。 学者レベルの世界のようです。 修行者の立場ではないのです。 もしそうでなかったら、私たちは菩提寺の和尚様から、悟りへの具体的な方法を教えてもらうことができたはずです。 また、そのような説法も聞いているはずです。 でも、そのような機会はなかったようです。 しかし、初期仏教の比丘(修行僧)たちは遠慮することなく、躊躇することなく、悟りについて、解脱について、涅槃についてどんどん説いてくれています。 それだけ“悟り”というものが身近なものなのです。 そして、彼らも悟りに至る具体的な実践方法である「四聖諦」を実践しているのです。 誤った見解を破り、智慧を得ること、それが悟りなのです。 神秘体験などいった感覚レベルのものではありません。
ブッダが教えてくれた“苦”からの解放(悟り)の方法を知り、それを学び、実践してみる、そんなプログラムがスタートします。その法(ダンマ)は、私たちの人生を真の幸福に導くことしかできません。 そんな法(ダンマ)に触れてみるだけでも、私たちの人生は根っ子の部分から好転していきます。 卑近な書き方をすれば“損”する人生ではなく、“徳”する人生になるのです。 こころが清らかになっていく道が、悟りへのプロセスですから当然のことです。 こころが清らかになるとは、こころの汚れ(煩悩)が減る、消えることなのですから。
お読みになるだけでも、生きるヒントになるかと思います。
すべての生命が幸福でありますように。