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美しいこころを育てる


おはようございます。

ムサコジ(無作居士)です。

肌寒い日が続いています。 蝉の声もいつのまにか消えてしまって、 とても静かになったように思います。 すずめは相変わらずおしゃべりをしています。 おしゃべりが好きなのです。 夏と呼ばれる季節が過ぎました。 なぜナツと言うのでしょう。 少し考えてみました。 言葉を理解するには色々な方法があります。 言語学という学問もあります。 学問ですから終わることはありません。 つまり、いつまでたっても正解はないと言えます。 言葉は生命のこころと大きく関係しています。 こころの表れを言葉(音声)として表すのです。 それができれば、まわりに自分のこころ(気持ち)を誤解されることなく伝えることができるし、 自分のこころの状態を明確に知ることもできるわけです。 つまり、社会に争いがなくなるのです。 平和になるのです。 トラブルの多くはこころの誤解、つまり言葉の誤解から生まれるからです。 しかし、これはかなり難しいのですね。 なぜなら、こころのとある状態を言葉という一枚のラベルで貼ってしまうのは不可能だからです。 でも、こころの表れを音にすることは可能かもしれません。 実はそれが“言霊(コトタマ)”です。 「あ」という一音があるこころの表れです。 「い」という一音があるこころの表れです。 「あ」「い」と発音してみて下さい。 身体の振動する箇所が違うはずです。 また、その時のこころの状態も違っているはずです。 日本語は、実はそのようなところから成立されたということです。 様々なこころの状態をひとつひとつの“音”にしたのです。 それが日本語の成り立ちなのです。 ですから漢字などの“文字”とは関係がありません。 音が日本語なのです。 このような言霊(コトタマ)の視点から夏を観てみると、 夏はナ・ツになりますね。

ナ・ツという音声(こころ)の根源となるのは、 本能的な欲、そして感情、もしくは純粋な愛となります。 いかがでしょうか。 夏ってそんなこころの状態になってませんか。 日本語は、こころの状態を素直にそのまま伝えることができる唯一の言語なのです。 ですから大切に使った方がいいですね。 あまり現代風にこねくり回さないことです。 夏について思いついたことを少し書いてみました。

では、biブログ送ります。 今回は、、、

「美しいこころを育てる」 というテーマで書いてみます。

私たちは美しいものが好きです。 そして、美しいものに憧れますし、 また、美しくなりたいと思います。 では、どのようにしたら美しくなれるのでしょう。

そのためには“美しい”とはどのようなものなのか明確にさせなければなりません。 “美しい基準”が欲しくなります。

では、その基準とはなんでしょう。

まず、最初に上がるのが“身体”でしょう。 身体とは足の裏より上、頭髪より下となります。 一般的に言う“美しい基準”とは身体のことになると思います。

・スタイルがいい(八頭身?) ・顔立ちが良い 身体からみたらこのくらいしかないように思います。 でも、この基準は誰が決めたのでしょう。 八頭身なのが美しいと誰が決めたのでしょう。 また、顔立ちが良いとはどのような顔のことでしょう。 ちなみに顔立ちとは皮のことですよね。 頭蓋骨、眼、耳、鼻を被っている皮。 それが、どのようになっていると顔立ちが良いのでしょう。 よく分かりません。 八頭身はなんとなく分かりますが、 顔立ちについての基準は実に曖昧です。 しかし、私たちは“美しく”なりたいのです。 でも、なかなか思う通りにいきません。 “美しい基準”に適合しないのです。 八頭身にはどうしてもなれません。 頭蓋骨を削るわけにはいきません。 骨盤なども削らないといけないかもしれません、 最近では“痩せている”というのが、スタイルが良い基準になっているようです。 だとしたら、痩せるトレーニングやサプリメントといったダイエットをすれば、 スタイルが良くなるでしょう。 顔立ちもなんとかなります。 最近では美容整形というのが当たり前のようですから、 「顔立ちが良い」基準を提示して美容整形すれば可能かもしれません。 いずれにしてもお金がかかります。 結構なお金がかかるかもしれませんが、 “美しい基準”に近づけるためなら仕方ありません。 ですから頑張ってお金を稼ぎます。 身体のためにお金を稼ぎます。 でも、さらに“美しい基準”は増えていきます。 それは、素適な洋服、靴、アクセサリーなどを身に纏うことです。 身体の“美しい基準”を完璧に満たすのは難しいですから、 それを補うために身体の外側を飾るわけです。 これにもお金がかかります。 やはり、結構なお金が必要となります。 ですから、お金を稼ぎます。 身体のためにお金を稼ぐのです。 “美しい基準”に近づくことは、とても大変なことです。 このように、人は、朝から晩まで身体のことばかり考えるようになります。 朝起きたら、お化粧して出かけなければなりません。 また、寝る時にはそれなりのお手入れをしなくてなりません。 他にも髪型、髪の色、服、アクセサリー、そしてそういったもののコーディネート、 そのようなことで頭が一杯になります。 人間は身体の面倒しかみないようですね。 世間を見ると科学の進歩や技術の発展も、この身体のためなのですね。 美容、健康、ファッションに関係する産業が儲かっているのもうなずけます。 このように私たちは“美しさ”を追い求めているのは事実です。 そして、実際そういう行動ばかりしています。 でも、ここで冷静になって考えてみましょう。 “美しい基準”って明確にあるのですか? 八頭身、痩せている、顔立ちが良い、という基準は誰が決めたのですか? きっと答えは出てこないはずです。 どこかのTVでやっていたとか、 どこかのファッション雑誌に載っていたとか、 この女優さんやモデルさんが美しいとか、 そういったものが基準のようなものになっているはずです。 つまり身体の“美しい基準”などはない、ということになります。 そして、それは“美しい”はないということにもなります。

私たちが自分勝手に美しいものを作り上げているだけなのです。 そして、そこに明確な基準は存在しません。 すべては概念、思い込みなのです。 その概念、思い込みに時間のほとんどを費やし、 お金を費やし、思考、知識、精神を費やしているのです。 そして、“美しい基準”に近づくことができないことに悩み苦しむのです。 基準に近づいたら近づいたで、それをなんとしても維持しようと必死になるのです。 必死になると苦しくなります。 美しさを強く求めることは、欲です執着です。 欲が満たされないと強い怒りが生まれます。 欲と怒りはひとつのコインの裏表です。 楽しさ(欲)を求める裏には怒りが貼付いているのです。 強い欲、強い怒りというこころは決して美しいものではありません。 醜いものです。 しかし、求めれば求めるほどそうなっていくのです。 美しさを求めたのに、かえって醜さが増すことにもなるのです。

それは身体に現れてきます。 こころは身体に現れます。 醜さが身体に現れるのです。 美しいと思う容姿は、様々な色や形の一形態にすぎません。 花には花の色形があって、人には人の様々な色形がある、 その中のひとつなだけです。 ちなみに、“美しい”と思うのは誰でしょう。

他ならぬ“自分”です。

もし、スタイルも顔立ちも完璧だという人がいたら、どうでしょう? “美しい基準”にピッタリはまった人がいたらどうでしょう。 その人は自分が美しいと思うでしょか? おそらく思わないでしょう。 なぜなら、その基準が当たり前だからです。 スタンダードだからです。 まわりから、「とても美しいですね。うらやましいです。憧れます」と言われても、 「あ、そうですか。ありがとうございます」で終わるはずです。 しかし、そういった人にも悩み苦しみがあるのです。 「あの人のようになりたい。美しくなりたい。」という悩み苦しみです。 世界的にかなり有名なトップモデルの方が、実際そのようなことを言っていました。 一般的な人たちとなんら変わりありません。 このように、“美しい基準“は自分のこころの中にあります。 こころが決めているのです。 でもその基準は、色形といった目に見えるものではありません。 こころの清らかさのことです。 トップモデルの方もこころが清らかであったら、 すべてのものが清らかになるはずです。 こころの美しさを感じるでしょう。 自分のこころの美しさを感じるのです。 身体の美しさは意味をなさないのです。 ブッダの時代、インドにシリマという名の究極な美人がいました。 彼女を一目見たら、どんな男性の頭も狂ってしまうほど美しかったのです。

人びとは、彼女と遊ぶためにとてつもない大金千両を平気で払うのです。 それでも彼女に会いたいのです。 しかし、彼女はそのような美を売って生活する生き方がいやになってしまいます。 そして、歳を取ってから仏教徒になります。 ある一人の若い比丘(修行僧)が彼女の家に托鉢に伺いました。 そして、彼女を一目見たとたんに頭が狂ってしまったのです。 あまりに美しかったからです。 年老いてさえも、まだ美しかったのです。 そのくらいに美しかったのです。 その彼女も亡くなってしまいます。 ブッダはシリマの遺体を放置することを提案します。 そして、七日目になって、ブッダはその国の王様のところにいって、 シリマをセリ(競売)に出して下さいと頼みます。 そして、千両からセリを始めます。 しかし、誰も競り落とす人はいません。 最後にはタダでもらってくださいと言っても、 タダでもらう人もいなかったのです。

身体というものはそのようなものなのです。 身体のことを自慢し高慢になり、 色々と知識を使い考え、手をかけても、 最後は皆シリマと同じです。 表面的な美に操られ、身体の面倒をみることだけで一生を終える人の人生はあまりに虚しいです。 しかし、こころは違います。 こころを美しくすることで、現世を清らかに過ごすことができます。 欲や怒りといった汚れから解放されるのです。 身体に対する執着から解放されます。 ですからこころが軽く安らかになります。 さらに、死後の世界があるとしたら、その死後の世界さえも清らかなものとなっていくのです。 美しいこころ(浄心)は私たち誰にでもあります。 しかし、浄心は育てないと育ちません。 しかし、それにほとんどの人が気づくことはありません。 美しいこころ(浄心)を育てること、 それが本当に美しくなる唯一の道なのです。

“こころ”の学校では、そのような浄心に気づき育てる集中講座を行っています。 詳しくはこちらをお読み下さい。

すべての生命が幸せでありますように。

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〜人間関係が善くなるこころの流れ、悪くなるこころの流れ ☆11/12(日)「“こころ”の学校…初等編」第五回開催 〜ブッダの説く“究極の幸福(悟り)”に至る三つの聖なる道


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