幸福という不安
- musa-koji
- 2017年10月23日
- 読了時間: 7分

おはようございます。
ムサコジ(無作居士)です。
先祖供養とよく言います。
供養というのは、亡くなった人に自分の徳を供え与えることです。
供養とは、亡くなった方に幸せになるためのエネルギーを与えるということなのです。
徳というのは、幸福になるためのエネルギーです。 お布施したり、冥想したり、人助けをしたり、自分が何か善行為をして、 それによって得られた善いエネルギーを回向するのです。 回向とは善行為で得た功徳を他に分け与えることになります。 つまり先祖の霊にその徳を分け与えることなのですね。 私たちの善の心を先祖の霊に分け与えることなのです。 その意思をきちんと明確に伝えることをするのが回向です。 しかし、供養(回向)の範囲をもっと広くとらえます。 先祖だけではなく、神々、先祖、祖父母、両親、親族、 恩師をはじめ一切の生きとし生けるものすべてに対するものになります。 とても広大な範囲になりますね。 回向はいつでもどこでもできます。 仏壇の前やお墓の前でなくてもできますね。 お盆という儀式だけではなく、日々の暮らしの中でも行えます。 ちなみに、功徳の中の一番の功徳、それはこころを清らかにすること、です。 初期仏教ではそのようにいいます。
では、biブログ送ります。
今回は、、、
「幸福という不安」 というテーマで書いてみます。
私たちは幸福を求めます。 それが当然のことのように思っています。 でも、なぜ幸福を求めるのか、その内側を観たことはありません。 幸福は私たちの内側に、不満、不安といった“苦”があるからあらわれるのです。 もし、私たちの本質に不満、不安などがなかったら、幸福のことなどは考えないでしょう。 幸福という言葉さえ生まれないでしょう。 不満、不安を解消したいために生まれた言葉が“幸福”なのです。 不満、不安が消えた瞬間「幸福」と感じるのです。 不満、不安という“苦”が消えることが幸福なのです。 ですから、幸福というものがどこかにあるのではありません。 お金に幸福があるのではないのです。 綺麗な服に幸福があるのではないのです。 旅行に幸福があるのではないのです。 美味しい飲食物に幸福があるのではないのです。 不満、不安という“苦”が、こういった刺激によって一時的に麻痺します。 その麻痺によって“苦”が隠され“幸福”だと感じるのです。 麻痺は一時的なものですから、またいずれ不満、不安という“苦”は頭を持ち上げてきます。 ですから、幸福というものは想像、妄想、幻想とも言えるでしょう。 不満、不安というものは、どんな時にも私たちに影のようについてきます。 「お腹がすいた」という不満。 「食べ過ぎた」という苦痛、不安。 「お金がない」という不安、不満。 「お金を持っている、失う、管理」という不安、恐怖。 このように私たちに“苦”はつきまとうのです。 では、なぜ不満、不安というような“苦”が生まれるのでしょう。 それは“怒り”という感情がその内側にあるからです。 不満、不安というのは誰でもイヤなことです。 拒否したいことです。 反発したいことです。
それは“苦”ですね。 それが怒りです。 イヤというのは怒りの感情です。 怒りの感情が常に内側にあるのです。 それは、大きな炎の怒りではなく、くすぶっている、火種ほどの怒りです。 ですから、なかなか気づくことはできません。 しかし、怒りは怒りです。
怒りという感情はこころのはたらきです。 怒りという感情を生み出すこころの成分(心所)があらわれたのです。 もし、怒りの成分をなくすことができたらどうなるでしょう。 怒りという感情があらわれなくなります。
怒りという感情があらわれなくなると、どうなるのでしょう。 イヤという拒否、反発する気持ちもなくなります。 つまり、不満、不安といった“苦”もあらわれることはありません。 どんなものを手に入れようが、どんなことをしようが、 いつも影のようにつきまとっていた“苦”があらわれなくなるのです。 “苦”があらわれなくなるとはどういうことでしょう。 いつも穏やかで静かなこころでいられるのです。 平安なこころでいられるのです。 これが、本当の意味で幸福なのです。 ですから、“苦”の根っ子にある“怒り”を滅ぼす行為をすること、 それが、最高の幸福者への道なのです。 では、怒りを滅ぼすためにはどうしたらいいのでしょう。 まず“怒り”というものをしっかり知ることです。 私たちが怒りだと思っているのは、怒りのほんの一部にすぎません。 氷山の一角みたいなものです。 私たちが認識できる“怒り”はすでに大きな炎の状態です。 その状態はある意味手遅れです。 もっと、微細な怒り(火種)に早く気づく必要があります。 大きな炎を鎮火させるのはとても困難なことです。 でも、ほとんどの場合大きな炎をなんとかしようと頑張るのです。 その炎をコントロールしようとするのです。 しかし、コントロールしようとすればするほど怒りの炎は育っていきます。 怒りはコントロールされることがとても嫌いです。 ですから、より怒りが増すのです。 大きな怒りの炎は誰にでも分かります。 そうではなく、くすぶっている火種に早く気づくのです。 それが、とても肝心なところです。 そのためには訓練が必要です。 くすぶり始めた火種に“気づく”訓練が必要となります。 それが怒りを退散させる方法のひとつです。 もうひとつあります。
それは、怒りとは真反対のこころを育てるのです。 そのこころを育てる訓練をするのです。 怒りとは、反発する、抵抗する、反抗する、敵を作るといった心の成分が活性化するから、 あらわれます。 そのような心の成分の反対の成分を育てるのです。 つまり、浄心所(美しい心の成分)を育てるのです。 その浄心所の中に限りなく大きく広く育つ浄心所があります。 育てれば、育てるほどどんどん際限なく育つのです。 その心所を育てることで、怒りが存在する場所がなくなってきます。 怒りが存在できなくなるのです。 つまり、怒りが退散していくのです。 ・くすぶり始めた怒りの火種に“気づく”訓練。 ・限りなく大きく広いこころに育つ浄心所を育てる訓練。 このふたつの訓練を続けるのです。 続けることで“怒り”が根っ子から減少していきます。 怒りが減るということは、不満、不安が減るということです。 不満、不安が減るということは、いつもつきまっていた“苦”も減っていくことになります。 “苦”が減るということは、本当の幸福が頻繁にあらわれるようになるということです。 幸福をお金に依存しなくなります。 幸福を綺麗な服に依存しなくなります。 幸福を旅行に依存しなくなります。 幸福を美味しい飲食物に依存しなくなります。 依存は奴隷と同じです。 奴隷は自由ではありません。 常に鎖につながれ、こころも身体も重いし、 そこに本当の幸福などありません。 主人から与えられる少しばかりの食べ物などに、 つかのまの幸福みたいなものを感じるだけです。 しかし、そんな奴隷(依存)状態から解放されるのです。 本当の幸福とつながることができるのです。 ・くすぶり始めた怒りの火種に“気づく”訓練。 ・限りなく大きく広いこころに育つ浄心所を育てる訓練。 このこころの訓練を続ける意味がそこにあります。 この訓練の詳細はこちらになります。11/23(木)開催します。
すべての生命が幸せでありますように。
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