何のために生きるのでしょうか
こんにちは。
エバンジェリスト ムサシコジローです。
私の仕事場に最近よく山鳩が現れます。 いつも二羽です。 それも、カップルらしい、もしくはカップルになりたい、 感じの二羽です。 そして、その動作がちょっと粗暴なのです。 おそらく雄鳩が、雌鳩を追いかけるのに一所懸命なのでしょう。 また、その追跡から逃れようとする雌鳩も一所懸命なようです。 いずれにしても、かなり大きな音をたてています。
生命の営みというのは、あまり変わらないものですね。 人間も同じようなものです。 “万物の霊長”などと言いますが、 生命の営みはすべておなじです。 そこに上下関係はありません。 ですから差別などありません。 鳩も私たちも同じです。 “差別”を作っているのは、 他ならぬ“自分”なのですね。 差別は“罪”です。 “人間様”などと高慢にならないことです。 その“高慢”が破壊欲を生み出し、 自然を破壊し、地球まで汚染してしまうのです。 怖いです。 しかし、その“高慢”は私たちに常に在るのです。 そう簡単に消えるものではありません。 ですから、誰々(政治家など)の責任ではなく、 私たち自身の責任とも言えるのです。 “慢”という不善心所、 特に注意しないといけないと思います。 私たち自身を、私たち自身で不幸にする種子です。
では、biブログ送らせていただきます。
今回は、、、
「何のために生きるのでしょうか」
というテーマについて書いてみます。
前々回のブログで書きました、 「生き方のタイプ」と繋がってくるものです。 生き方のタイプは大きくわけると二つあると書きました。 「ぼんやり考えて生きている」か「シャープに考えて生きている」かです。 ぼんやり考えて生きている人は、 「まわりに流されて生きている」と言えます。 それは混乱・迷った思考で生きているとも言えます。 シャープに考えて生きている人は、 「まわりはどうでもよく、本当の流れ(真理への道)を自ら探して生きている」と言えます。 それは澄んだ知性で生きていると言えるでしょう。 もちろん、どのような生き方をするのかは、その人次第です。
では、お釈迦様は生きることについて、どのように考えるのでしょう。 お釈迦様も人間ですから、当然同じことを考えたわけです。 今も大昔も人間の中身は変わっていません。 お釈迦さまは、何とか答えを見つけようとして、 世間を見渡して、人生とはどういうものなのかを、 徹底して観察し研究してみたのです。
人間には色々な目的があって、 その目的について実験もしたのです。 一番ポピュラーな目的というのは、 「人生、まあ楽しければいいのではないか」というものです。 世の中の多くの人は、楽しみを追いかけていく人生を歩んでいるわけです。 しかし、何が楽しみかというのは明確になっていないのです。
そこで、お釈迦様は自分について考えてみました。
楽しみとは、、、 目でいろいろなものを見て楽しむ。 耳でいろいろなものを聞いて楽しむ。 舌でいろいろなものを味わって楽しむ。 鼻でいろいろなな香りを感じて楽しむ。 身体に触れるいろいろな感触を楽しむ。 本などを読んだりして、いろいろなことを考えて楽しむ。 “たったそれだけ”のことだと認識したのです。 “たったそれだけ”、、、深い意味の言葉です。 「たいしたことない」「ちっぽけ」「陳腐」「安っぽい」 そんな意味が含まれているのではないでしょうか。 でも、世間の人にはその真意が気づけないのです。 分からずにいるのです。 世間の人は“楽しみ”とは一体何なのかさえ知らず、 さらに、その楽しみが実はそれほど価値があるものではないことも、 知らないことになるのです。
ですから、楽しみがぐちゃぐちゃになってしまいます。 でも、そういった正体の分からない“楽しみ”を手に入れるために、お金を稼ごうとします。 「“楽しみ”を得るためにはお金が必要だ」 という思考になります。 そうすると、 「お金を稼がなければならない」 という概念で頭がいっぱいになってしまいます。 とどのつまり、何のためにそんなことをするのかということを忘れてしまうのです。
何のためでしたか?
「人生をまあ楽しむため」
でしたよね。 でも、そのことをすっかり忘れてしまって、 とにかく稼がなければならないと走り出してしまうのです。 そうなると、結局“楽しみ”も失ってしまいます。 見失ってしまうのです。 財産を増やそうとして頑張って、自分の時間がなくなり、寝る時間もなくなり、 家族と一緒に過ごす時間もなくなっていくのです。 余裕がなくなって、大きな苦しみを味わうことになっていくのです。 ここで、冷静に観てみましょう。 こういった楽しみはすべて外から入ってくるものです。 目、耳、鼻、舌、身体などの五官を通して入ってくるものです。 つまり、外にその対象となるものがないと楽しくなれない。 もちろん自分の好みのものがないと、 楽しくなれません。 自分の好まない(嫌いなもの)対象だと、 不快になるしそれは怒りに連鎖していきます。 ですから、自分好みの楽しみの対象を手に入れるために必死になります。 そして、それを探し続けます。
しかし、“自分の好み”も変わっていきますから、 また、違うものを探し続けることになります。 それが繰り返されることになります。 そして、それを手に入れるためにお金を稼ぐのです。 それがずーっと続くのです。 それは“苦しみ”以外のなにものでもありません。
こんな話しがあります。
お釈迦さまの弟子に、若く美しい人がいました。 二十歳くらいで出家して、俗の「楽しみ」から離れて生活しているのです。 とても美男子です。 それをある王様が見ると、何となくかわいそうに思えたみたいです。 この若者は、頑張って仕事でもして金を儲けて、 結婚でもして、遊んで生活すればいいのではないかと王様は思われたようです。 そこで、、、
「あなたは若いのに、そんなに苦しまないで、もうちょっと楽しんではいかがですか。 人生を楽しんで、その後で修行でも何でもやればいいのではないですか」
と言ったのです。 すると、その若者は答えます。
「あなたがたのしていることのほうが、苦しみなんですよ。 人間には、自分が何をやっているのかわからないのです。 たとえば、美味しいご飯を食べたときには『ああ美味しかった』と満足するのではなく、 『もっと美味しいものはないか』と探しているではありませんか。
お金を儲けても、さらにまた儲けなければならないと考えていませんか。 一体、このような欲望に終わりというものがあるのでしょうか。
王様が小さな国の国王になったら、これでは足りない、隣の国も手に入れたいと思って、 隣の国へ攻め込んでいくのではありませんか。 どこまでやれば気が済むのでしょうか。
のどが渇いている人が塩水を飲むようなもので、欲にはきりがありません。 同様に怒りにもきりがありません。 ただ、無茶苦茶に行きているだけで、苦しみは大きい。 だから、私は違う道を選んでいるのです」 これは逸話ですが、今も昔も変わっていません。 現代も同じです。 「楽しみ」を求めてきたはずなのに、 実際には楽しみは減り、心配が増えて、恐怖も増えて、怒りも増えて、 いつも何かにビクビクしながら生きなければならなくなっていないでしょうか。 そんな社会になっていないでしょうか。
このように、一般(俗世間)の人々の生き方というのは、蜃気楼を追う動物のように、 無意味だと、お釈迦さまはおっしゃいます。 いくら追いかけても先へ先へ逃げていく蜃気楼。 空が地面に映って水のように見えて、湖だと勘違いするのですが、 そこにあるのは冷たい水ではなく、ただの灼熱の砂漠のみ、そのような状態です。 私たちはそんな蜃気楼を追いかけている、とお釈迦さまは言われるのです。 “楽しみ”という蜃気楼。 五官(眼、耳、鼻、舌、身、)を通して得られる“楽しみ”のことなのです。
今回、書いているテーマは、、、
「何のために生きるのか」
です。 このテーマを探った結果、お釈迦さまが理解したことは、 俗の世界の“楽しみ”のためだけに、私たちは生きているのではない、ということです。 そして、その世界にいる限りいつものどが渇き、 塩水を飲み続けることになります。 つまり、苦しみが増し続けていくのです。
では、どうしたらいいのでしょう。
実は、違った次元の“楽しみ”“喜び”というものがあります。 “楽しみ”“喜び”と言う俗世間の言葉を使いますが、 次元がまるで違うものです。 それは、経験してもらうことでしか理解できるものではありません。 しかし、五官などを通して感じる“楽しみ”とはまるで異質のものです。 それは、一般の人には体験することはできません。 普通に過ごしていたら、体験することができないのです。 そのために、ある特別な訓練が必要になります。 ある特別な訓練をすることで体験できる世界です。 かといって、荒行、苦行などといったものではありません。 荒行、苦行は決してこころを清らかにするものではありません。 お釈迦さまも認めていません。 そういったものではなく、知性を高いレベルに成長させる訓練です。 “慧根(えこん)”という王様の心所(こころの中身)を育てるのです。 “智慧”を育てるということです。 「智慧とは“ありのまま”を観ること」 なのです。 しかし、ほとんどの人に“ありのままを観る”ことはできません。 つまり、智慧はありません。 ちなみに「頭がいい」ことは智慧ではありません。 智慧は意識して育てないと現れない心所です。 つまり訓練しないと育たないのです。 訓練を続けることで、こころはとても高いレベルに成長し、 “智慧”の心所を育てるはたらきをします。 そのプロセス(道)に入っていくと、 次元のまるで違う“喜び”“楽しみ”が現れてくるのです。 これまで歩んできた道から、 “智慧”を育てる道を体験してみるのもいいのではないでしょうか。 それは、高いレベルの浄心の道なのです。 その過程で、、、 「何のために生きるのか」
その答えがすっきり理解されることになるでしょう。
では、今回はこの辺で失礼します。
すべてのものが幸せでありますように。
慧根心所につながる訓練(トレーニング)について書いてあります。 どうぞお読み下さい。 ⇒こちら