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すべては愚かもの


こんにちは。

自由自在な人生エバンジェリスト ムサシコジローです。

近くの公園に散歩に行ってきました。 大輪の蓮の花がちらほら開き始めています。 風も清々しくとても清らかです。 心が本当にひとつに統一された時、  心はすべてに入っていくことができます。 花にも風にも入っていけるのです。

では、ヒューマンレター配信させていただきます。

私たちは本当に賢いのでしょうか?

今回はそんなことをテーマに書いてみました。 「愚か者」という言葉があります。 そんな歌も昔あったような気がします。 この言葉は仏教と関係があります。 私たちが使う何気ない言葉の中には、 仏教の言葉が沢山入っています。 この「愚か者」という言葉もそうです。 原語はパーリ語「bâla」となります。 では、なぜ「bala」が仏教で使われるようになったかと言いますと、 お釈迦様がよく使われていたからです。

出家者の方などの過ちを戒めるときに、 決まって「bâla」という呼び名で呼んだようです。

つまり、愚か者って呼んでいたんです。 では、なぜ原語がパーリ語なのかと言いますと、 お釈迦様が長く滞在して教えを説かれていた 国の言語がそうだったからです。

その言語は一般の人々の話し言葉としても使われていました。 そんなところもあり、お釈迦様もその言語で説法されたのです。

ちなみに当時は、宗教学者たちが使っていた学術語であるサンスクリット語もあったのですが、 その言語は使わずに、一般の人々の話す言葉であえて説法したようです。 また、お釈迦様の直接の教えを完全に残しているのも、 パーリ語と言われています。 話しは戻りますが、お釈迦様はどんな人を愚か者と呼んだのでしょう。

他の宗教のように絶対的な唯一神を信じず、 否定する人々に対して使うような、 とても強い暴力的で卑下する意味ではないのです。

「野蛮人、ケモノ、悪魔」的なものではありません。

自分の心を見ようとしない。 心を清らかにしようと努力しない。 常識的に言ってる言葉をそのまま信じて、 真理を自分で確かめようと努力しない。 自分の生き方を向上させる方向に持っていかない。 他のことで時間を忙殺されて、心をみる時間がまったくない。 そのような人に対して、 「愚か者」と呼んでいたのです。 賢者などではありません。 そうだとしたら、 私たちはすべて「愚か者」ですね。 そうなのです。 私たちはすべて「愚か者」です。 だからご安心ください、、とは言えません。

「愚か者には輪廻が長い」 とさらにお釈迦様は説かれます。 つまり、とてつもない長い時間“苦”から解放されないということです。 そうなるとやはり誰でも困ります。 あなたも困るのではありませんか。 困るどころではありません。 はっきり言って“イヤ”だと思います。 でも、ほとんどの人が自分のことを愚か者だとは 思っていないのではないでしょうか。 知識ある方、学識ある方、高名な方、偉い肩書きの方、、、 そんな方たちに、あなたも私と同じ「愚か者」です、 と言ったらどうなるでしょう。 そんなことはない、と即座に答えるのかもしれません。 インテリでしょうから顔にはでないかもしれませんが、 心の中では怒りの炎が強くゆらいでいるのかもしれません。

しかし、お釈迦様からみたら愚か者は愚か者なのです。 自分の心を見ようとしないもの。 心を清らかにしようと努力しないもの。 真理を自分で見ようとしないもの。 そういったものはすべて愚か者なのです。 では、なぜ愚かなのでしょう。 それは、そういった心の状態では必ず“悪果”が起こるからです。 先ほどの輪廻の話しと同じです。 因縁、因果法則、カルマの法則が必ず働くからです。

自分の心を清らかにしようと 努力しないのは悪業です。 それは罪でありかなり重いのです。 つまり、俗な言葉で言えば「不幸」になるのです。 そうならないように戒めたのです。

「愚か者」 と呼んで戒めたのです。 出家し修行に励んでいる者に対してもそれは変わりません。 愚か者のレッテルを貼るのです。 でも、それは「努力しなさい」という応援の言葉なのです。 そうすれば誰でも“苦”の世界から解放されると説くのです。 誰でも解放されるのです。 そして、その具体的な方法を教えてくれているのです。 そのために、お釈迦様は説法と伝道の旅を四十年以上するわけです。 そのために“教え”仏教が存在するのです。 私が今回書いたものは、お釈迦様の直接の教え(パーリ語経典)を そのまま継承したと言われる初期仏教からのものです。 私たちが普通に仏教と呼んでいる 「大乗仏教」とは違ったものです。 まずは気づきましょう、私たちは「愚か者」だと。 見栄をはらず、高慢にならず、素直に潔く認めましょう。 それが本当にできると、 かなりスッキリしてとても楽に生きられます。 そして、心が清らかになる行為を行っていきましょう。 そのための方法をしっかり学びましょう。 そんなところに、一度立ち止ってみたらいいと思います。 一所懸命頑張って試験勉強しようとか、 寝る間も惜しんで働こうとか、 終わることのない楽しみの遍路をするとか、 そういった流れを一度止めてみるのです。 そして、少しの時間でもいいので、 自分の心を観る時間にあててみるのです。 それを続けることで、少しずつですが、 違う心の境地が現れてきます。 それは、とても落ち着きのある穏やかな心の世界です。 落ち着くことのない“楽しさ”とは違うものです。 その心の境地をまず味わってみて下さい。 そのようの私は思っています。 それができたら「愚か者」のレッテルが 少しずつ外れてくるように思います。 それは心の成長であり、 高いレベルの心になるということです。

本当は今回違うテーマで書くつもりだったのですが、 書いていくうちに違った方向に行ってしまいました。 よくあることですが、、、

では、今回はこの辺で失礼致します。

すべてのものが幸せでありますように。

<追伸> 高いレベルの心に成長するためのトレーニングが7/30(日)開催されます。 「自分とはなんだろう」 「なぜ自分探しをするのだろう」 そのような疑問に対する気づきがきっとあるはずです。 心のはたらきについても書いてありますのでお読みいただけたら幸いです。 こちら


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