top of page

繊細な感性の世界へ


こんにちは。

自由自在な人生エバンジェリスト ムサシコジローです。 桜が舞っています。 無数の花びらが風とともに舞っていきます。 さて、その花びらたちはどこに帰るのだろう。

ふと、そんなことを観てみます。 そんな散歩をしています。 花びらは、 自らの意志のもと舞っていくようです。 風も自らの意志で舞っているようです。

無数の桜の花びらたちと、 透明な風がそれぞれのダンスをただ舞っただけ。 それらが織り成す舞。 そして、それは限りなく静かな世界に、 自然に自然に帰っていくようです。 そこが彼らのふるさと。 彼らの住まい。 私たちもその世界に帰ればいいだけ。 この生を透明な風にゆだね、 そのまま舞っていけばいいだけです。 そんなことを観ました。

では、biブログ贈ります。

今回は、、、

【繊細な感性の世界へ】

というものです。 ↓  ↓ 私たちの内側にいつも横たわっている存在。 それは“純粋”といったもの。 そしてそれは“意識”そのものでもある。 その“純粋”は光。 あなたの心を照らす光だ。 その光は純粋にあなたの心を照らす。 あなたの心が青であれば、 その青を照らす。 あなたの心が赤であれば、 その赤を照らす。 その心が歪んでいたら、 そのゆがみをそのまま照らす。 純粋な光は純粋に照らすだけだ。 人はその照らし出された、 光の反射を見る。 青なら青。 赤なら赤。 歪みなら歪み。

それが意識となって、 私たちの表の意識に現れる。 そして、それを“私”と思う。 青が“私”。 赤が“私”。 歪みが“私”だと思う。 だから、ほとんどの人が“純粋”を観ることができない。 光の反射だけを見ているだけだ。 つまり“気づく”ことができない。 そして、それとつながりそこに戻ることができない。 “気づく”ことができない人は、 永久に“純粋”という意識そのものに 繫がることができない。 その世界に戻ることができない。 純粋は純粋でしかない。 それ以下でも以上でもない。 それは絶対的な安堵をもたらす世界、 つまり絶対的な幸福の世界だ。 しかしほとんどの人がその世界に入ることができない。 それは“気づき”がないからだ。 ブッダの教えではこの“気づき(サティ)”こそが、 もっとも重要なのだと説く。 ブッダはすべての衆生が、絶対的な幸福の世界に繫がる法を説いた。 そしてそれを体系化した。 その教えの中でもっとも大切なのが“気づき(サティ)”なのだ。 では、何に気づくのか、、、 それは“純粋”という意識が、 常にあなたの中に横たわって“在る”ことに気づくことだ。 そして、あなたの心に反射して現れた意識は、 仮相であると気づくことだ。

青は本当のあなたではない。 赤は本当のあなたではない。 歪みは本当のあなたではない。

でも、そこに気づく人は極わずかだ。 そして、その人だけが絶対的な幸福、 絶対的な安堵という世界を体験するのだ。 そして大歓喜を味わうのだ。 それは、、 「楽しい」といった次元のものではない。

「幸せ」といった表面だけの次元ではない。 底知れぬほど深い静寂であり、 すべてが消え入ってしまった安らぎがある。 そして、すべてがそこに“在る”のだ。 それをブッダは“真の楽しみ”という。 「真のやすらぎにまさる楽しみは存在しない」 とブッダは言う。 では、なぜ多くの人がそこに気づくことができないのだろう。 それは、心底“純粋”を求めないからだ。 絶対的な幸福を求めないからだ。 絶対的な安堵を求めないからだ・

だから、ほとんどの人が中途半端で終わる。 「まあ、こんなのでいいのでは、、、」 「そんなに深く考えることないのでは、、、」 「そんなことよりもっと楽しいことしよう、、、」 といって“純粋”にフタをする。 あなたの心の“知性”という純粋性にフタをする。 そして、そのやるせなさを他のものでまぎらそうとする。 つまり一時的な楽しみ、一時的な癒し、を求める。 それは繰り返される。 何度も何度も繰り返される。 なぜなら、それは“まぎらはし”にすぎないからだ。 それらは一時的なものにすぎない。 絶対的なものではない。 イエスは“求めよ”と説いた。 そして“探せ”と説いた。 そうすれば“純粋”への扉、 つまり神の御国の扉に気づくことができる。 そして、その扉に気づいたら“叩きつづけよ”と説いた。 気づいただけでは扉は開かない。 扉の前に立っていても、 扉は開かない。 自動ドアではないのだ。 気づいたら、その扉をたたき続けなければならない。 でないと、その扉は開くことはない。 その扉を開けるのは“純粋”だからだ。 あなたではない。 こちらの世界ではない。 純粋の世界が主なのだ。 でも、ほとんどはその扉に気づいても その扉を叩こうとしない。 もしくは叩き続けようとしない。 ここでも中途半端だ。 ここまできて中途で終わる。 しかし、このことだけは知っておいてほしい。

“純粋”という世界、 それはあなたの根源の世界なのだ。 そもそもあなたは純粋なのだ。

でも、それを忘れてしまっている。 もしくは惑わされてしまっている。 自我というとても強い引力がそうさせる。 まず、そこに“気づく”ことだ。 そして、あなたの根源である“純粋”の光が、 “気づき”を常に待っていることを。 こういった感性は実に神妙であり、 微細なものだ。

だからやっかいなのだ。 でも、あなたは知らなければならない。 あなたの中にいつも横たわっている“純粋”というものは、 純粋そのものなのだということを。 だから、粗雑で粗大で浅薄なものではない。 あなたがその神妙な世界に気づくためには、 あなたの感性(感度)が神妙で微細にならなければならない。 粗雑で粗大で浅薄なままでは、 そこにいけない。 では、どうしたらあなたの感性は神妙で微細になるのか、、、

それは、あなたの心の純度を増すことでしかできない。

心の純度を増すとは、、、 あなたの心の“自我”という器官の働きを最小にすることだ。 私と思っている“私”を何度も観ることだ。 観るとは静慮することでもある。 また、思惟することでもある。 それができたときに、あなたの心の中の“知性(ブッディ)”が輝く。 そして、それが“純粋”というあなたの本質への架け橋となるのだ。 あなたがあなたの本質である“純粋”に帰りたいのなら、 本当のわが家に帰りたいのなら、 あなたの感性を神妙で、微細で繊細なものに導くことをしなければならない。 しかし、それ以前に欠かせないのが、 あなたが“純粋”を強く求める状態になっているかどうかだ。 あなたはなりふりかまわず、 “純粋”を追っかけないといけない。 見栄や誇りはほこりのように、 潔く祓わないといけない。 しかし、それはとても美しことだ。 “潔い”とは究極の美だ。 “純粋”を追いかけることは、 自我の渇望や渇愛とは違う。

純性である知性の目覚めがそうさせるのだ。 それはあなたの今の魂の状態でもある。 もし、あなたが“純粋”に強く惹かれないのであれば、 まだ、あなたの魂は旅の途中なのだ。 そして、強く惹かれてもそれを強く求めようとしないのなら、 それも魂の旅の途中なのだ。 あなたの魂の旅は果てしなく続き、 また、同じように世界という迷路を彷徨い続けるだろう。

“気づき”それに気づく微細な感性の世界へ向かおう。 そこにしか、あなたそのものである“純粋”に戻る道はない。 もし、あなたが本当に“純粋”を求めるのであれば その道を一歩一歩歩むしかないのだ。 こちら

では、今回はこの辺で、、、 今書きながら聴いているKaruneshです。 こちら


“こころ”のイベント

“こころ”のセッション体験版

bottom of page