• musa-koji

知らないということほど重罪


芸能人というととても人気があります。 なぜなのか、ちょっと理解できませんが、、、。

芸能人というと、役者、ミュージシャン、お笑い芸人などが代表的なものになると思います。 そういった方たちがSNS等でメッセージ等配信すると、やはりその影響力は大きいようです。

ある意味、それだけ世間(俗)と繋がりが深いということになります。 世間(俗)では、このように芸能人の方々を尊敬したり、憧れたり、師匠のように思ったりするようですが、本当のところはどうなのでしょうか。 確かに彼らは、夢、楽しみ、希望、感動などといったものを喚起させることに長けています。 それらを「喚起させる」ことが彼らの仕事といっていいでしょう。 それは素晴らしく善いことなのでしょうか。 確かに一般的にいったら、とても善いこと、になるのでしょう。 その辺について、ちょっと書いてみました。 パーリ経典の「相応部・聚楽主相応」の中に「聚楽主相応(じゅらくしゅ-そうおう)という経典があります。 この中に「歌舞伎聚楽主(かぶき-じゅらくしゅ)」というお経があります。 歌舞とは歌や舞(踊り)のことですね。 伎とは芸人(俳優など)のことになります。 聚楽主とは村長という意味です。 歌舞伎村の長ということですね。 パーリ語で naṭagāma となります。 英語で village of players と訳されています。  つまり、歌舞伎聚楽主(かぶき-じゅらくしゅ)とは、歌や舞などで観衆を喜ばせる芸人の集団(村)の長という意味になります。 現代的にもっと分かりやすく言えば、エンターティナーの集団の長(主宰者)ということになると思います。 お釈迦様の当時は、同じ職業人が集団で暮らしていたのです。 エンターティナーとは、、自身の特技、演技、芸、パフォーマンス、マジック、音楽などを披露し、観客を楽しませる或いは笑わせることで接待するコメディアン、ミュージシャン、マジシャンを指す。と辞書にあります。 ですから、この経典はエンターテインメントの長が、お釈迦様にあることを質問した、という場面を思い浮かべたらいいのではないかと思います。 村長の問いにお釈迦様は、、、 「もうよい、村の長よ、やめなさい。そんなことをわたしに問うてはならない」 と村長からの質問を三度断っています。 なぜ、三度も断ったのでしょう。 ちなみにこの経典の村長の名はタラプタさんと言います。

以下、スマナサーラ長老のこの経典の解説を引用しますので、お読み下さい。

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「芸は天国への道」と信じていた芸人

「芸は天国への道」と信じていた芸人がいました。 彼は芸が上手で、大勢の人が彼の芸を見て楽しんでいました。 彼はいつも真剣で「私の芸を見て大勢の人が笑い、楽しみ、喜びを感じている。 だから私は頑張らなくてはいけない」と考えていました。 そして「芸で人々を笑わせ、楽しませる人は、死後、天国に行く」と信じていたのです。

ある日、この芸人がお釈迦さまにお会いしました。 そしてこのように尋ねました。 「お釈迦さま、私は毎日正直な気持ちで芸をやっています。 芸の師から口伝として、献身的に芸をやり、人々を楽しませ、笑わせれば、死後、天国に生まれ変われると聞いております。 お釈迦さまはこれについてどう思われますか」と。

お釈迦さまは「その話はよしましょう」と言いました。 しかし、芸人は同じことを再び聞いたのです。 お釈迦さまは同じように「その話はよしましょう」と言いました。 しかし芸人はまた同じことを聞いたのです。 そこでお釈迦さまは「私はその話はよしましょうと言っているのに、あなたは三度も聞きました。 では答えますから、お聞きなさい。 あなたが皆の前で欲の場面を演じたことによって、多くの人はますます欲を増大させました。 あなたが怒りの場面を演じたことによって、多くの人々はますます怒りを増大させました。 あなたが愚かな場面を演じたことによって、多くの人々はますます愚かになりました。 自分だけでなく、他人の欲と怒りと無知を増大させたのだから、あなたは死後、地獄に落ちるでしょう」。 お釈迦さまの話を聞いた芸人は、泣き崩れました。 「今までの自分の人生は何だったのか。 芸の師は私に何を教えたのか。 これこそが天国に行く道だと聞かされ、私は命賭けで芸をやってきたのに、これからどうすればよいのか」。 その人は立ち上がれないほどのショックを受けました。 その様子を見たお釈迦さまはこのように諭されました。

「人の道はそちらにあるのではありません。身体で善いことをし、言葉で善いことを語り、頭で善いことを考え、心の汚れをなくすことが人の道です」と。 その芸人はその場で出家し、修行に励み、やがて悟りを開いたのです。

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以上が「歌舞伎聚楽主」という経典の概要です。

お釈迦様は次のようにおっしゃっています。 そもそも人は、貪欲を離れず、貪欲のきずなに繋がれています。 そもそも人は、嗔恚を離れず、嗔恚のきずなに繋がれています。 そもそも人は、無智を離れず、無智のきずなに繋がれています。 その状態をさらに増大させてしまったのです。 ですからそのような(増大させてしまった)人々は、身壊れて、命終わりて後は、地獄ありて、そこに生を受けるであろう。 だから、もし真実をまねて、人々を笑わし楽しませたりすることによって、天界に趣(おもむ)けるという考えをいだくならば、それは間違った考えである。 間違った考えをいだく者には、ただ二つの道がある。それは地獄への道か、畜生の道かである。 歌舞伎村の村長タラプタさんに対するお釈迦様の答えは、天界どころか地獄か畜生のいずれかの世界に堕ちるというものでした。 地獄とは楽を得ることができず、苦ばかり受ける世界のことです。 たとえば、八大地獄の一つである焦熱(しょうねつ)地獄(tāpana)という処は、炎に焼かれて串刺しにされて苦しむ処ということです。また、無間地獄(avīci)という処は、他の地獄では苦しみが途切れることもあるが、一切途切れることなく炎、苦しみを受け続ける処だということです。 畜生とは、横に(tira)行く(acchāna)生まれのもの(yoni)、つまり、鳥・魚・虫・獣などのすべての動物のことです。人、天人のように覚り、涅槃という上に向かうことが出来ず、普通は地獄などの下の方に堕ちる生命たちです。 人間に殺害され、互いに殺生しあう苦しみを受けるとされています。 ですから常に怯えていなければなりません。 俗世間では、エンターテインメント(芝居,演芸,音楽など)によって人を楽しませることは、良いこととして賛美したり奨励したりするのが常識です。 しかし、お釈迦様の答えは地獄、畜生などといった悪趣に堕ちるというものです。 それが、事実・真実である、ということですね。 因果法則はそのように働くというわけです。 この村長は善いこと(善行為)だと思って、正直に真面目に芸を磨き、周り(観衆)を笑わせ、泣かせ、怒らせ、感動させてきたのです。 しかし、結果は地獄、畜生に堕ちる、ということです。 彼は、悪いことはしていない、善いことをし続けたという信念があったのですが、しかし、事実・真実は違っていました。 因果法則というのは、私たちの「想い・願い」で働いているわけではありません。 真実・事実に添って働いているのです。

私たちが、自分勝手に善いこと(善行為)をしたと想っても、それが果たして善行為かどうかはわからないのです。 ですから、善行為とはどのようなものか、悪行為というのはどのようなものか、正しく理解していなけれはならないわけです。

つまり、ブッダの教え(ダンマ・真理)を学び、理解しておかなければならないのです。 それがなかったら、本当の意味での善行為・善業(kusala kamma)はできないのですね。 ですから、自分の「想い・願い」だけで善・悪を判断することは不可能です。 この村長は、本当の意味での善行為・善業(kusala kamma)を知っていませんでした。 ちなみに、もし村長が本当の意味での善行為・善業(kusala kamma)を知っていたとしたら、どちらの方が罪が重くなるのでしょう。 つまり、まるで知らなかったから罪を犯してしまった、というのと、知っていて罪を犯してしまった、というのではどちらが罪が重いのか、ということですね。 答えは、まるで知らなかったから、という方が罪が重いことになります。 なぜなら、完全に無智だからです。 無智であるから、何度も何度も同じことを繰り返し続けることになります。 つまり、どんどん罪を増やし続けることになります。 もうどうすることもできません。 やはり、堕ちるところに堕ちないといけなくなります。 しかし、知っていれば、歯止めが効くはずです。 そして、いずれ止むはずです。 ですから、まるで知らなかったから、という方が罪が重いのです。 無智・無明という煩悩が「苦・dukkha」を生みだす根本原因です。 無智でいる限り「苦・dukkha」から解放されることはなく、さらに「苦・dukkha」を増大させることになります。 「知らなかったから許される」という人の理屈は、自然の法則・因果法則には関係ありません。 法則は法則ですから、容赦なく働きます。 「屠殺場に牽かれる牛のよう」なものです。 ダンマを知らないものは、「屠殺場に牽かれる牛のよう」なものなのですね。 悪趣(地獄、畜生、餓鬼、阿修羅)に堕ちる可能性大です。 ダンマを学ぶものは善趣(人・天)に趣くことになるでしょう。 さらには、天界さえも超えた境地に到ることができるでしょう。 とにかく、無智・無明の煩悩から離れることに精進することです。 無智・無明、つまり「知らない・分からない」ということを正当化しないことです。 また、それを理由に逃げないことです。 怠らないことです。 とにかく精進することです。 ダンマの修習に頑張ることです。 知らないということも、知らないということは、とんでもない悪業になると肝に銘じておきましょう。

三宝のご加護がありますように。 日々是好日。

ムサ・コジ


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